2019年9月6日金曜日

螺鈿『金魚・仔赤』 ~表面的な「美しさ」からの脱却をめざして~



先日、螺鈿”KumitateK”内でオーダーいただいていた『金魚・仔赤』が完成しました。 
オーダーいただいたのが20164月で、製作開始が20167月だったので、完成まで実に32か月を要したことになります。






自分の中の話で恐縮ですが、この作品は今までとは違うものであるという感覚があるので、ここに製作に至るまでの過程、作品に込めた思いなどを記します。少し長くなりますが、お付き合いいただけたら幸いです。



・『桜』を製作したときに覚えた違和感と気味の悪さ



『金魚・仔赤』をオーダーいただいたのは20163月に作成した『桜』と同じ方です。当時、白蝶貝を桜の花びらに切り抜き、着色した螺鈿の上に貼り付けるデザインが好評をいただいており、その中でも一番多くの枚数を貼り付けた作品がその方の『桜』でした。すべての桜の花びらを散らさず、満開にしています。





完成した『桜』を見た時、それまであまりやったことの無かった2層構造のフェイスプレート、木地の上に桜を配置する、細かなラメパウダーを散らす、など新しい表現を試みたこともあり満足感を覚えました。光が当たった際の輝き方なども美しく、良い物を作れたという感覚もありました。



ただ一方で、「今後もこの方向で作品を作り続けて、自分のものづくりが一段先に進むのだろうか」という漠然とした違和感、あるいは不安みたいなものも同時に覚えました。なぜ背景の螺鈿を青く着色するのか、なぜ桜の花をこの構図で配置したのか、なぜラメパウダーを散らしたのか、なぜ螺鈿の下にメープルのツキ板を敷いたのか。こういった基本的な問いに「綺麗に見えると思ったから」という答えしか見つけられなかったのが、漠然とした不安につながっていたのだと思います。そもそも「綺麗に見える」ってどういうことなのでしょうか。



『桜』が完成した当時、螺鈿”KumitateK”というサービスはありがたいことに好評をいただき、月に5件のオーダー枠は毎月埋まりウェイティングオーダーを順次受け付けている状況でした。自分がなんとなく「綺麗に見える」と思い施した装飾が好評いただき、オーダーを沢山いただく。しかし、自分のものづくりの基本的な方向性や装飾に対する根本的な問いに答える事ができないまま、あるいは無自覚なままものすごい速さでことが進んでいく状況に、気味の悪さ、ほとんど怖さのようなものを感じました。



・『桜』デザインの着想と素朴で表面的な観察眼



螺鈿”KumitateK”サービスを始める前も、貝をライン状に切り出したもの、粉々に砕いたものを用いて装飾するサービスは行っていました。

  
しかし、具体的な形として切り出したのは、桜の花びらが最初です。きっかけは、桜の花びらに切り出した螺鈿と蒔絵が施された万年筆をギフトショップで見たことです。4年前のことでした。自分の日常生活には接点のない伝統技法だと思っていた蒔絵の技法が、日用品である文房具に施されていることに少し驚き、同時にその見た目の綺麗さに感動しました。ただ、よく桜の花びらを観察すると、「これ桜の花か?」という疑問が浮かんできます。





桜の花は、花弁どうしが重なり合うように一枚の花を構成していて、とても繊細です。



その繊細さが、万年筆に施された桜の花には感じられないような気がして、「自分ならもっといい表現ができる」と思い桜の花びらを切り出すことを始めました。『桜』の装飾をするときは、必ず花弁どうしが重なるように配置し、中心部を薄くピンクに着色しました。




また、桜の花びらが散り、風に舞っている姿が綺麗だと常々思っていたので、通常は「サクラチル」不吉な表現として避けられる、桜の花びらが散る姿もデザインの中に組み込んでいます。





こうした着眼点は、4年たった今でもユニークなものであったと評価しています。ただ、そうして生み出した『桜』のデザインを美しいものとして装飾する。万年筆を見た時に覚えた感動をそのまま、カスタムIEMのデザインとして再現する。この一連の流れは非常に素朴なもので、創作行為の初歩といえるものかもしれません。

しかしそれがゆえに表面的な美しさにのみ着目した行為なのではないでしょうか。そのことに気づいたとき、自分の表現がいかに表面的な美しさにとらわれたものかを痛切に感じました。キラッと光る、見た目に鮮やかなものに心ひかれつつも、その方向性でものづくりを進めると不安を覚える自分がいる。この歪な状態を抜け出すには、対象の素朴な観察から生まれる表面的な美しさへの執着から脱却しなくてはならないと考えたのです。



この当時、螺鈿の『紅葉』など複雑な形状を切り抜く技術を身に付けていたので、『金魚』を同様に貝から切り出すことはさほど難しい課題ではありませんでした。




しかし、このままこのオーダーに取り掛かると、また同じような葛藤を生む作品に仕上がるだろう。そう感じた私は、金魚というモチーフを自分の中でより確かなものにするために、久々に金魚を飼育してみることにしました。モチーフと触れ合うことで、何か本質的なものが見えてくる気がしたからです。



・大和郡山への旅。金魚との生活。



金魚を飼う経験、あるいは飼おうとした経験は多くの人にあるのではないでしょうか。私も小学生のころ金魚を飼っていました。大人になってから金魚を飼おうとすると、子供の頃と比べたくさんの情報に触れあうことになります。水替えが毎日必要だとか、水温の管理が必要だとか、子供の頃には意識したことが無い情報ばかりでした。また、子供のころはフナ形の金魚が好きでしたが、琉金という丸みを帯びたからだの金魚もとてもかわいく思えます。そして、想像した以上に金魚には種類があり、「銀魚」や「鉄魚」みたいな不思議な名前の種類や、「土佐錦」のようにひらひらとした尾びれが特徴な美しい種類がいることも知りました。



また、金魚の有名な産地として大和郡山という街があることを知りました。さらに大和郡山には電話ボックスの中に金魚を入れたアート作品もありました(20173月当時)。何かヒントになる物があるのではないかと思い、実際に大和郡山へ行ってみることにしました。

大和郡山でみた数々の金魚は、新しい発見ばかりでした。まず、金魚は田んぼのようなところで孵化・養殖するということ。ぱっと見ると田んぼのようなところに、まだ赤くなっていない金魚がうじゃうじゃ泳いでいます。全く綺麗さとは結びつかない姿なのですが、その数の多さに圧倒されました。この中から、姿かたちが良い物、よく赤く色づいたものなどが選別され、養魚場の水槽に移されて養殖されます。生育不良の物はその場で廃棄されるか、家畜やペットの飼料、金魚すくい用として出荷されるようです。







街で一番大きな養魚所でみた「丹頂」という種類も、子供のころには見たことの無い品種でした。琉金のボディに、頭頂部だけ赤い姿がなんともユニークで可愛く思えました。






そして、大和郡山の街中で見る金魚はどれもとても大きなサイズでした。電話ボックス内で泳ぐ金魚は、フナ形の和金が多く見慣れたものだったのですが、これほど大きなサイズに育つのかと、少し驚きました。






・電話ボックスと金魚を組み合わせた作品を見て感じたもの
 


電話ボックスという自分たちには見慣れたものの中に金魚を泳がせる。大きな金魚が沢山泳ぎ、光のあたり加減でとても綺麗に見えました。その感動だけで、大和郡山に来たかいがあったのですが、もう少しこの作品について考えてみました。

「金魚が入った電話ボックス」という発想と作品の見え方自体が特異なものだったのですが、ふと電話ボックスの透明の壁に近づいて中を見てみると、まるで金魚が街中を泳いでいるようです。この日常の風景を一変させる仕掛けと広がる光景、みたいなものがこの作品の本質ではないかと思いました。日常を一変させる体験が重要なのでしょう。


 
少しずつ、目の前の感動だけではなく、背後にある作者の意図に気づこうとする姿勢を持つように心がけしました。



・すぐに死ぬ金魚、命のはかなさ。


飼育する金魚の種類を決め、さらには水槽を近所のアクアショップで購入。いよいよ「丹頂」を1匹迎えることにしました。ところが。



この丹頂、2週間を持たず死んでしまいます。水槽が小さく水質が悪化しやすかったこと、突然の水質変化に順応する体力が無かったことなどが原因として考えられましたが、なんともあっけなく失われてしまった命を前に、少し茫然とした記憶があります。

その後も、水槽を二回りほど大きくして、比較的丈夫だと言われるフナ形の和金を何匹か飼育しました。半年ほど飼育できましたが、季節が夏に代わり暑くなるにつれ水質が悪化しやすくなり、やはり彼らも死んでしまいました。






「金魚って、こんな簡単に亡くなってしまうものなのか」。子供の頃に飼っていた金魚とどうして別れることになったのかいまいち思い出せなかったのですが、「そうか全部死んでしまっていたんだな」と納得しました。おそらく多くの人も金魚を飼い始めたものの、すぐに亡くなってしまう体験をして、飼育をやめてしまうのではないでしょうか。継続的に飼育している人も、「金魚は死ぬもの」と認識して根気強くこの小さな命に付き合っているように思います。



・金魚愛好家に見る、命を峻別することの葛藤





すぐに死ぬ金魚ですが、上手に彼らを飼育し繁殖まで命をつなぐ人たちもいます。私は残念ながらそこまでたどり着けず、金魚の産卵の話に触れるにつれ「可愛がった金魚が子供を産んだら楽しいだろうなぁ」と考えていましたが、実際に繁殖にたどり着くとそこには想像しえなかった悩みが生まれるのだという事を知りました。



自分の理想とする金魚が1匹いたとして、それを生み出す過程で生まれたほかの個体をどう扱うか?200匹~300匹の仔赤が生まれ、間引きすると決めた命をどうするか。圧倒的な数の命の前に綺麗ごとは言わず、粛々と間引きする方。金魚を安楽死させる方法を考え、泣く泣くそれを実行する方。




どんなに金魚をうまく飼育したとしても、命のはかなさ、別れ、あるいは命の峻別からは逃れられないのだという事を知りました。



・理想の金魚を突き詰める『土佐錦』の愛好家


美しい姿を追い求めた究極体のような金魚として、「土佐錦」という種類があります。「土佐錦」は尾びれが一部反転し、ひらひらと水中で泳ぐ姿はとても美しいものです。

しかし同時に、病気などにとても弱くすぐに死んでしまう側面もあり愛好家の中でも飼育が難しい品種です。
 

「土佐錦」を愛好する人たちは、「美しさを作る」といいます。口先がとがった姿が良いとされるので、苔をつつく動作をさせるためにすり鉢状の水槽で育てることが一般的なようです。ひらひらとした尾びれを作るために、尾びれを一部切除して理想の形に誘導したり。病弱な体をケアするために毎日の全水替えを行ったり。それほど手間暇をかけて育てても、理想に近づかない個体は容赦なく廃棄したり。赤く色づくように、赤い色素を含んだ虫をエサとして与える・・・など、こだわりぬいた飼育方法の一つ一つに驚かされてばかりでした。「土佐錦」は孵化から1年ほどで、鉄のような色のからだから、鮮やかな赤身を持ったからだに変化するのだそうです。



フナ形の金魚の飼育に難しさを感じていた自分にはとても想像のつかない世界でしたが、偶然近所のアクアショップに土佐錦の幼魚が入荷していたので、無謀にも3匹ほど購入して育ててみました。病弱な個体と聞いていたので注意を払ったのが功を奏したのか、そのうちの一匹はこれまでの最長記録である9か月を超えて生存しましたが、残念ながら色づく前になくなってしまいました。



・金魚の美しさは、人に葛藤を抱かせる力強さにあるのかもしれない。


金魚愛好家の間引きに対する葛藤、「土佐錦」愛好家の理想の個体に対する考え方。今まで

想像したことの無い世界が、大人になってから金魚を飼育することで見えてきました。そして、実際に金魚を飼育して感じた、小さな命を維持することの難しさ。あれだけ小さな体でありながら、人に様々な葛藤を抱かせる力強さが金魚の美しさの本質なのではないかと思い、製作に入りました。20194月のことです。



・螺鈿『金魚・仔赤』に込めた思い


『金魚・仔赤』には、左右で108匹の金魚の仔赤が泳いでいます。いずれもフナ形で、琉金や「土佐錦」などの品種を養殖する場合においても、一定数は生まれてくる形状の金魚です。成魚の形がフナ形でない品種を育てる場合、間引きされる命です。




命の「善し悪し」を生育者の主観によって判断される立場というはかなさがあります。しかし、一方で水中を自在に泳ぐ力強さがあり、小さな命が108匹も集まると、全体でうごめく一つの大きな命のようにも見え、「畏れ」のような感覚も覚えます。





金魚を飼育し感じる事が出来た命を峻別することの怖さ、すぐに死んでしまうはかなさ、しかし水の中での力強さ。たくさんの命の集まりである集団としての姿をIEM上に構成することで、小さな命に対する「畏れ」を表現しました。この「畏れ」の感情こそ、『金魚・仔赤』の持つ美しさであると考えます。「畏れ」を前に、表面的な美しさを構成することができません。たくさんの命を前にしたとき、人がそれを扱うことの困難さ。たくさんの個体を秩序の中に配列し、調和の中に構図的な美しさを得ることの困難さ。そもそも「善し悪し」の基準となるものはなんであるのか。金魚を実際に飼育した際に感じた事、あるいはその体験から考えることを作品の中に詰め込みました。





何匹かの仔赤が、シェルからフェイスプレートへ飛び込んで行きます。シェルとフェイスプレートを明確に区切るピンクアイボリーの厚板も飛び越えています。フェイスプレート部の装飾、カナル部の装飾、といった区切りを飛び越えて躍動する姿に、『金魚・仔赤』の力強さと無秩序さが表れているのではないでしょうか。





また、シェルの内部、BAドライバの間近で泳ぐ個体もあります。水の深さ、小規模な群れが何層にも重なっていることを表現しています。






『金魚・仔赤』は完成しました。しかしこれは、間引かれる命です。彼らが間引かれ、美しさを求めて残された命は、どのように変化するのか。螺鈿『金魚』の製作は、まだ続きます。次は自分の技法の引き出しを増やし、作品を完成させたいと思います。



最後に、「一つのイヤホン製作に3年以上かける」というわがままを聞いていただいたオーナーさんに感謝します。また、いまだ完成を待っていただいている方々、オーダー再開を待っていただいている方々にも。ありがとうございます。



※螺鈿”KumitateK”サービスは現在休止中です。オーダー再開時期は現在のところ未定です。
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